「家父長制はいらない」を読んだ

2024/09/23

家父長制はいらない 「仕事文脈」セレクション』を読んだ。

家父長制とは男性が一家の長で、家族に対して絶対的な支配権を持つ制度のこと。1876年に民放で定められ、戦後に廃止されたが現代もこの慣習は根強く残っており、そのせいで苦しむ人がいる。この本はリトルマガジン「仕事文脈」の中からフェミニズム、ジェンダーなどに関する記事をピックしてまとめられたもので、合計18人の著者がいろんな角度から家父長制にまつわる文章を書いている。

どの記事も面白かったが、特に印象に残った覚えている文をピックアップ。

こうした場面では「パートナー」といった言葉よりも「夫婦」というキーワードを使った方が効果が大きいという判断があったからだろう。たしかにそうなのかもしれないが、その現状に追随していたら、数の少ない人たちが小さな違和感を感じ続ける状況は変わらない。

これはSEOライティングについての一文だが、自分も同じような経験がある。何かを表現するとき、誰も傷つけない表現はあるんだけど、それだと抽象的すぎて誰にも刺さらないものになってしまう場面。「夫婦」のように言い切ってしまう方がターゲットに届きやすいなら商業的にはそれを選択するのが正解となる。でも自分の気持ち的には違和感があって…みたいな。Webサービスを作ってるとターゲットを明確にすることがよく求められるが、そのターゲットを言語化することで誰かに違和感を感じさせてしまってる気がする。各々が生活しているのに、わざわざ線引きして分断させてしまってるようなイメージ。インクルーシブな社会とマス向けの資本主義のバランスを最近よく考えるが、なかなか自分のなかで折り合いがつけられてない部分。

表現の現場でよく聞かれる言葉がある。「実力があれば評価される」「優れた作品をつくれば結果はついてくる」

(中略)

ここでの「実力」や「優れた作品」を評価する仕組み自体に偏りがあるということに他ならない。

女性の作品が評価されにくいのではないか、というのを受けて。自分のなかであまり言語化できてなかったが少しモヤが晴れた。そもそも評価というのは他者から与えられるもので、その評価者は男性が多い。自分と似ている人のことは理解しやすく、無意識のうちに加点するものなので、男性の作品が評価されやすい構造になってしまう。女性の作品が評価されることももちろんあるが、その一例をとりあげてワーッと叫ぶのではなく構造の不平等を解決するのが大事。何かの審査がなされる場であれば審査員を男女半々にするのがまずは出発点かなと思った。

私たちは自分と異なる考えを持つ人に同意はしなかったが、その意見を正そうともしなかった。ただ、反論に耳を傾けるだけの好意と信頼を相手に抱いていたと思う。

こういうコミュニケーションをしたい。ただ聞くというのをやりたいと思ってるが、相手の意見を強く押し付けられそうになると反発してしまう。他人に同調してしまいがちな性格なので、うかうかしてると相手の価値観に染められるような恐怖がある。実際は大事なものは人それぞれ違っていて、考え方が違うのは当然で、それでOK。各々の意見を言って、必要あればそれを擦り合わせていくので良いのに、それが難しい。これは練習が必要なものだと思ってるので少しずつトライしていきたい。

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自分は男性なので、男性の立場から。「男らしさ」という価値観がインストールされていることで苦しむことは割とあった気がする。力は強くないし、喧嘩したことないし、小さいことをいつまでも気にする性格。車を運転できないのは長らくコンプレックスに感じていた(免許はあるが運転が怖い)。泣くこともよくある。それも感動して"男泣き"とかではなく、普通に寂しくて泣いたりする。今ではそれも自分の特徴と思えてるけど、子供のときとかは何となく良くないようなことに感じていた。

男性が女性を守るべきみたいなのも、もっとフラットで良い気がしていた。困ってる人がいれば重い荷物持ったりしたいけど、それは男性だからではなくその人より自分の方が力が強いならそうした方が良いと思っているんだと思う。男性の方が女性より力が強いでしょ、みたいなのは傾向としてはあると思うが、個人差は常に性差を超える。男性だからどう・女性だからどうではなく、その人がどう感じるか。とはいえ構造的な不平等があるなかでフラットもクソもないので、まずは個人としては日常の男性特権に自覚的になるところからかなと思っている。