「その日暮らしの人類学」を読んだ
「その日暮らしの人類学」を読んだ。最近は脱資本主義というか、社会の競争に揉まれずに生活するようなことに興味があって本を読み漁っているが、多くの本でこちらの本が引用されている。これだけ目に留まるとさすがに読んでみたくなり購入。濃密な内容で一気に読み終えました。
よく引用されているのはピダハンの生活についての記述。ピダハンはアマゾンの奥地に住む狩猟採取民族で、注目されているのが彼らの言語能力。彼らの言語には時制や創作話などが存在せず、自分の身で体験した「直接体験」しか存在しない。つまり誰よりも今を生きている。日本などの近代国家では未来のために今を犠牲にすることが多い。本当にそれでいいんですか、と問うのにピダハンの生活は参考になる。
私たちは本能的に明日も生きていけるか不安に感じる。この不安を封じるために、社会はいまの延長線上に明日や未来が当然来るものだという雰囲気を出す。いずれ来る未来に向けて節約したり努力したりする。予測できる確実なものが喜ばれ、不確実なことはリスクとして取り除かれようとする。(好きな仕事をしようとすると「そんな生き方をしていて社会に迷惑がかかるんじゃないか」と言われたりする)
しかし世界的に見れば、ひとつの仕事を老いるまで続けるのはむしろ圧倒的マイノリティである。本書の中では著者が調査した様々な仕事が登場する。それらは綿密に計画されたビジネスではなく、街に出てチャンスがあればモノを売り、困ったら他人を頼り、得たものを分け与えて暮らす生活である。たくさんの商売があるから調子が悪いものがあっても他でカバーできる。そうして毎日を紡いでいく感覚は日本のサラリーマンをしてるとほとんど持つことはない。
決められた働き方ではなく、人と人が交流して動的に仕事が生まれていく。こういう話を以前にも読んだなと考えてみると「チョンキンマンションのボスは知っている」だ。久しぶりに調べてみるとこれも小川さやかさんの著作だった。日本の大企業で働いているとそれしかないように視野が狭くなってしまう。こうして全然違う働き方・生活を見るのは視界を取り戻すヒントになる。
「Dark Horse」を読んだ
「Dark Horse」を読んだ。授業や会社、生産ラインなどがすべて標準化・規格化される時代。しかしその道から外れて「落伍者」となった人が輝くことが多々ある。彼らのことを「ダークホース」と呼び、人とは異なる角度から成功できた理由を探る一冊。
まず初めに、現代は「標準化」が進みきった社会である。人と同じようにすることが求められ、同じ土俵で人より優れた結果を出せると評価される。そこで消されたのが「個性」で、経営者や管理者からすると個性はイレギュラーで抑制すべき要素のように見えてしまう。ダークホースはこの個性を大事にする生き方のことを指している。
アメリカで成功に対する意識調査を行なった。その結果によると、他人のことについては金と力が成功の要件、自分のことについては個人的な充足感や達成感を成功の要件と見なす傾向があるという。成功を目指して努力するのではなく、その時々が楽しいから取り組んでいる。ダークホースたちはその時間自体を楽しんでいる。
標準化されたシステムでは「ベストプラクティス」が溢れている。ビジネスの世界でも「こういう仕組みを作れ」「ビジネスモデルはこの10個の中から選べ」などと規定されたフレームワークがいくつも提示される。これは一定の正しさがある一方で、持続性がないという欠点がある。つまり面白くないのでやる気が続かないのだ。
ダークホースは自分の充足感を大事にしている。この充足感とは内なる動機のことで、自分でやりたいと思っていることなら続けることができる。モチベーションが無限に続くことはもちろんなく、時間の経過によってやる気が低減することもある。しかしその時はまた別の内なる動機が活性化する。自分のやりたいことを選んでいけば、その内面から出る些細な声を聞き逃さずキャッチできるようにもなる。
「自分で決めた」ことならなんでも良いわけではないことに注意が必要だ。例えば大学入試でAとBの大学の候補から選んだとする。一見自分の意思で選んだように見えて、実際は「大学に行く」「できれば偏差値の高いところに」という社会的な規範が押し付けられている。本当に自由に自分の心で決めたことなら良いが、このように見た目上の自由で選択させられた場合は気をつけよう。そんな時でも世の中は「あなたが選んだんだから自己責任」と言ってくるが、そもそも自分の無意識に用意された要素も多々ある。
日々の充足感を重視するダークホース的な考えでは先のことは予想しづらい。この道がどこに繋がるか、これがどう富を生むのかはわからないまま物事を始めるる。「一生これをやっていく」まで腹を括れなくてもいい。「次に私がやってみるべきことはこれっぽい!」くらいの温度で試行錯誤し、それが自然と自分の道になっていく。それくらいの感覚でいたらいい。
リアクションよりアクションを
誰かに反応するリアクションは疲れる。メールやチャットの返信、相手が納得できる材料を示すことは相手のペースに合わせた行動が求められる。
自ら動くアクションなら好きなだけできる。自分が作りたいものを作ったり、手応えを感じた仕事のやり方を文章でまとめたり。自分が主体で、自分のペースでやれるのなら疲れない。
現実的にはリアクション的なタスクも多々あるし、それも重要。一人よりもチームの方がいろんなことが出来るので、繋ぎとなる動きもとても大事だ。
でも自分がコントロールするなかでそういう仕事もしている、というスタンスではいたい。周りに求められてるからやってる、と思ってるといずれ周りに振り回されてしまう。
時間を自分の主体に戻す。そのためには朝早起きして、自分のやりたいことから手につけるのがいい。
サッカーの思い出
最近はまたXとの距離が近すぎてるのでSafari拡張のブロッカーアプリを導入し、たまにしか閲覧できないようにしている。その空いた時間で何をしてるかというと、インスタでサッカーのスーパーゴール集を見ている。これぞ人生ですね。
小学校のとき、スポーツ少年団に入って3年ほどサッカーをやっていた。3月生まれの自分は体も小さく、体力もなかったので全然うまくないメンバーの一人だった。
それでも週3回の練習には毎回参加していた。ある時練習メニューに「センタリングで上がってきたボールをダイレクトでシュートする」というのがあった。この時自分はダイレクトの意味がわかっておらず、分からない恥ずかしさを堪えて友達に「ダイレクトって足のどこで蹴ればいいん?」と聞いて爆笑された(ダイレクトは蹴り方じゃなくてトラップせずに直接蹴ること)。真剣に質問して笑い者にされたこの瞬間はトラウマとなり、自分は今後どんなにしょうもない質問をされても笑わずに答えようと心に決めた。
ちなみに当時はキャプテン翼にどハマりしており、自分も登場人物たちのようにすごいプレーが出来ると信じ込んでいた。しかし普通に下手だったのでコーチに呼び出され、みんなとは違う特別基礎メニューをやらされて恥ずかしく思っていた。
今から基礎があるから楽しい部分を満喫できることを分かってるが、当時はペナルティのように感じていた。現代だと子供達が読んでるのは「アオアシ」だろうか。アオアシはキャプテン翼と違って本当にサッカーが上手くなるエッセンスが詰まってるし良いね。良い本の条件に「読むと自分も試したくなる」があると思ってるが、アオアシはまさにそれを満たしている。
基礎をコツコツやる時間が欲しいな。今年は英単語を覚えてTOEICでも受けてみようかな。
猫屋敷
昔、実家の隣の家が猫屋敷だった。たしか自分がまだ小学生の頃。おそらく飼い猫ではなく野良猫に餌をあげてるうちに集まるようになった、みたいな形態だと思う。毎日ミャーミャーと声が聞こえていた。
それだけ猫が集まると猫屋敷だけでは捌けず、何匹かは隣であるウチにもよく遊びに来ていた。軒先でちょっとしたオヤツをあげた。動物嫌いの父がいてペットは飼えなかったので、そのちょっとした触れ合いがとても嬉しかった。
子供の頃に初めて自分で買った漫画が「ワイルドハーフ」で、これは人間と犬が一緒に活躍する漫画だった。その中のエピソードのひとつに、自分が生まれたのと同じタイミングで飼った犬がいて、一緒に成長して助け合ってきたという話があった。幼少期はこれに憧れを抱いていた。
母方のおばあちゃん家では柴犬を飼っていて、正月やお盆に行くと会えるのが楽しみだった。道中でペットショップに寄って美味しいご飯やオヤツをお土産として買ったり、二人で一緒に散歩に出かけたりして嬉しかった。
将来的に動物を飼いたいという気持ちがあるが、住む家や現実的な判断(旅行に行きづらくなるとか)でどうなるか分からない。でも言葉を交わせない、でも通じ合える存在が家にいることはとても尊いことな気がしている。