「HARD THINGS」を読んだ
本棚を整理していたときに「HARD THINGS」を見つけたので読んでみた。2015年発刊で長らく積読になっていた一冊。ビジネス書の名著とされている本だけど、改めて読んでみると組織や仕事について考えさせられる部分が多くて面白い。
特に印象に残ったのは、「良い組織と悪い組織の違い」について書かれていたところ。
良い組織では、人々が自分の仕事に集中し、その仕事をやり遂げれば会社にも自分自身にも良いことが起こると確信している。
誰もが朝起きた時、自分のする仕事は効率的で効果的で、組織にも自分にも何か変化をもたらすとわかっている。それが、彼らの仕事への意欲を高め、満足感を与える。
一方で不健全な組織では、みんなが多くの時間を組織の壁や内紛や崩壊したプロセスとの戦いに費やしている。自分の仕事が何なのかさえ明確になっていないので、自分が役割を果たしているかどうか知る由もない。
これは本当にそうだなと思う。自分自身を振り返ってみても、気持ちよく働けていたときは、たいてい自分の仕事と組織の目標がしっかりリンクしていた気がする。「あなたの仕事は何ですか?」と聞かれて、みんなが自分の役割を明確に答えられるチームはやっぱり強い。
報酬の考え方についても面白い。たとえば優秀なメンバーから「他社からこれだけの条件が出ている」と言われると、つい給与やインセンティブを工夫して引き止めたくなる。しかしそれではビジネス貢献以外の行動に報酬を与えてしまうことになる。そうなるとどうなるか?社員は業績貢献よりも経営陣との交渉が給与アップのために有効だと誤って学習してしまう。業界水準を大きく下回っているなど競争力があまりに低い場合は別として、基本的には「ビジネスへの貢献」のみを見極めるのが長期的には有利になる。そしてそれには「その人はどれくらい組織に貢献しているか」を測る必要があり、日々の仕事と組織目標をリンクさせておく重要性の話に舞い戻ってくる。
朝起きて今日の仕事が明確であること。その仕事が何につながっているか理解していること。組織論などというと大層なことに聞こえるが、結局基本はそれだけのことかもしれない。
時間がないとすべてのサイクルが止まる
クリエイティブな作業をするには時間的・精神的な余裕が必要で、そのためには簡単なタスクから終わらせて取り組む数を減らしたり、机の周りを整えたりもう着ない服を捨てたりと余白を作るのが良いのではないかと何度か書いた。しかしこの余白作りでさえある程度余裕がある時じゃないと取り組めないものかもしれない。余白を作るための余白がない、というジレンマを感じている。
最近プライベートがバタバタしており、なかなか自分のサービスを開発する時間を上手く取れていない。こうなると思い通り進められていないというプレッシャーを感じて精神的余裕がなくなる。せめてスキマ時間でできることをしようとAIの情報のキャッチアップをしてみる。世の中が動いているのに自分は何も出来ていないと逆に焦りは大きくなる。買い物や料理、掃除など生活を回す仕事は出来ているがそれで一日が終わる。読書の時間を取れず、カフェなど自宅以外に行く機会も減ると徐々に頭も働かなくなってくる。YouTubeの動画は頭が回らなくても見れるのでそこに流れる。でも本当にやるべきはこれじゃないので心の何割かは不満を抱えている。
毎日がパンパンになったとき、その状態がずっと続くのか一時的なのかを見極める。ずっと続く場合は何かを手放すしかない。人間の容量は上限があるので新しい関心事が入ったなら何かを抜く必要がある。すべてやるのを諦め、量を減らしたり質を落としたりして作業量を減らしていく。例えば自動食洗機を使って皿洗いの時間をなくすなどお金に頼ることも考える。定期宅配を使って買い物に行く時間を減らすのも有効。負荷が大きいタスクを出してそれを軽くする。これまで通りとはいかず、何かを手放す必要がある。
その状態が一時的であれば、期間を決めてむしろその時間に向き合うことにする。例えば仕事が忙しい2週間は趣味は止めるとか。自分は暑さに弱いので夏の期間はパフォーマンスが落ちる。無理して外出せず体力を温存する。外に出る用事がある場合は帽子や日傘など準備して向かえばまだマシになる。その状態がずっと続くわけじゃないのなら無理に解決せずやり過ごすのも手となる。完全に解決しようとするのはそれはそれでエネルギーを使う。上手くやりすごすメンタルも手に入れたい。
サービス開発でいうと、忙しい時に人間の代わりに進めてくれるのがAIの仕事である気もする。タスクを依頼して進めてもらうことはできるが、人間のチェックは今後も必要となる。特に今作ってるものは仕上げの段階に近づいていて、機能追加は影響範囲を見ながら慎重に進めている。AIにノリで作ってもらうVibe Codingは初期〜中期の頃には有効だが、ユーザーへの提供が近づくと人間の介入は必要になる。AIにもっと任せるには動作確認やテストなど、変更内容を保証する側のAIエージェントが次は欲しい。
住んでる街で見つけたいもの
今の場所に引っ越してきて半年ほど、ようやく街の勝手がわかってきた感じがある。行きつけのスーパーやコンビニが定まり、品揃えの良いドラッグストアも分かった。朝から営業しているカフェ、本屋、おいしいケーキ屋を知り、図書館のカードを作り本を借りれるようになった。交通量の少ない散歩ルートも把握した。ここまで来るとほとんどの移動は半自動でできるようになり、道中にラジオやPodcastを楽しむ余裕ができる。昼過ぎの空腹時に食材が何もないと気づいたとき、最速で何か食べるにはどうしたら良いか分かってすぐ解決できる(近くの弁当屋に行く)。普段の生活ではあまり家から出ないので少しずつ開拓していき、この状態になるまで半年かかった。
新しい場所に引っ越す時、その付近にあると嬉しいのが本屋・カフェ・良い散歩道。スーパーやコンビニほど近くになくても良いが、自分のなかで鉄板で行く場所を確保できるとその土地に愛着が沸き始める。本当は地域の人からおすすめポイントを教えてもらえると早いが知り合いがいないのでその手は使えない。出かける用事がある度に検索し、いろんな場所に足を運んで自分が落ち着く場所を探していく。こういう過程が面白い。
あとは歯医者や内科、クリーニング店など都度必要なお店を見つけていく。同じエリアに住む知り合いが一人いると心強いがこれはハードルが高い。カフェなどのお店の常連になって店主と話すぐらいが妥当かもしれない。いまのところ賃貸物件を移動しながら住むスタイルをとっているので、引っ越した先の街を楽しむスキルは身につけておきたいところ。
人が真似したくないことをやる
良いアイデアは真似される。そんな世で違いになるのは人が「真似したくならない」こと。例えばサービスの品質やお客さんサポートを必要以上に高めまくる。以前読んだ本によると物事を「80点まで上げる」のと「80点から100点に高める」のとで同じだけ労力がかかるらしい。普通に考えると80点まで上げたら一区切りして次の領域にフォーカスを移す。そこで100点目指して作り込む姿勢が違いを生む。
この不合理に思える判断をなぜその人ができるかというと、その人の中では「合理」になっているから。気をてらってその行動をしているわけじゃなく、本人の中には筋がある。例えばWebサービスを開発しているとき、品質を妥協する理由はいくらでもある。早くリリースしたいとか、この機能はあまり使われないから他の部分に時間使った方が良いとか。しかし開発者の基準が高い場合、細部まで作り込まれたサービスが作られる。これは差別化などの他者を意識した判断ではなく、ただ細部までこだわったサービスを使いたい(作りたい)という自分の内面から滲み出たものになっている。
品質だけでなく、次にどういう機能を追加するか、追加しないかも小さな分岐点。良いアイデアのタネは真似されるが小さな判断のすべてを真似することはできない。それは模倣者の中には基準がないから。なのでスタート地点は同じでも、2-3年積み重ねていくと違いが表面化してくる。経営戦略として他社との差別化が必要とはよく言われる。それは確かにそうなのだが、その違いは狙って生み出すというよりは、むしろ自分の内面に深く潜った結果滲み出るものかもしれない。
絵を描くということ

NHKの「3ヶ月でマスターする絵を描く」が面白い。おじいちゃん先生こと柴崎先生に教えてもらい、絵は初心者の山之内すずがリンゴや木、街並みなどに挑戦していく番組。光の当たり具合や陰影の考え方などを分かりやすく教える。自分が最初に見たのは木を描く回だったが、葉っぱ一枚一枚を描くのではなく、筆をキャンバスに垂直に押し付けその筆の広がりを葉の広がりのように見せていた。自由な発送で楽しく絵を描いているのが伝わり、自分も挑戦したくなる。
絵を描きたい欲は定期的に訪れる。iPadにProcreateというお絵かきアプリを入れたり、セブ島に旅行したときに絵の具を買ってホテルの部屋で風景を描いてみたりした。腕がなくても楽しいが、自分が見たものをもっと上手く表現したい気持ちになる。大人になってから絵を学ぶ機会は意外と少ない。街の美術教室みたいなのを探したが子供対象のところばかり。リモート授業ならあるが少し味気ない気がしてやめた過去がある。
平日の昼に大きな公園に行くと年配の方々がキャンバスを広げて木や形式の絵を描いている。あぁいう老後を過ごしたい。晴れた日は絵を描きに行き、雨の日は大人しく家で本でも読む生活が理想だ。以前美術館の展示で見て印象に残ってるものがある。ある人の巻物だが、そこには旅先でその人が見た景色や人がスケッチされている。現代ではほとんどの人が写真で撮ると思う。しかし絵の表現ではデフォルメが利く。その絵にはその人が感じた驚きや喜びなどが増幅して描かれていたような気がした。
人生100年時代。どこかで絵には本腰入れて取り組みたい。