資本主義とマイペースの狭間で
年収上げレースにはだいぶ前に疲れて離脱し、自分のペースで生きたいと思うようになった。家族や少数の友人を大切にし、自分が意義を感じる仕事を毎日少しずつやる。他人との比較ではなく昨日の自分との比較。ゴールを幸せとするのではなく毎日の良い時間を幸せとする。こういう生活が目指すところ。
Webサービスを作るのは趣味であり仕事であり、もしかしたらどこかへ繋がるかもしれない手段でもある。自分の作ったもので多くの人が喜ぶとうれしい。そしてもしめちゃめちゃ上手くいったらどこかの会社から声がかかってバイアウトに繋がるかもしれない。自分の趣味と資本主義はこんな感じでつながっている。周りがどうとか関係なく好きなものを作っていたいけど、一方でどういうものが流行るかのマーケティング目線も自分にインストールされているのを日々感じる。
売れることが悪いことではない。中身がスカスカなものを大きく見せて売るのはダサいが、本当に便利なものがじわじわ広がって売れていくのは当然のこと。売ることが第一目的になるとAIに乗るとか、どうやったらバズるかを考え始めて気づけば便利から遠い位置で試行錯誤している。自分が作ったサービスの色んな使い方を無理やり考えるようになってしまい、袋小路に迷い込んでしまう。良いものを作れば売れるわけではないが、まずは良いものを作る。良いサービスはすべての基盤になる。そして良いサービスとは、実際に世の中にある課題を解決できるもの、そして自分が使いたいと思えるものである。
「大量廃棄社会」を読んだ
「大量廃棄社会」を読んだ。副題は「アパレルとコンビニの不都合な真実」で、新品の服やまだ食べられる食品が捨てられる実態をレポートした一冊。作られる服のうち4枚に1枚は新品のまま捨てられる。その実態を知ることなく私たちは気軽に服を買ったり捨てたりしている。
まだ着られる、どころか新品の服が捨てられるなんておかしい。これは誰が作った構造なのか?消費者はラインナップに欠品があるとクレームを言う。企業はそれに応えるために売り切れないほど大量に服を作る。大量に作るにはコストがかかる。だから途上国の安い労働力に頼る。途上国は成長産業を作るという国策としてそれを引き受け、無茶な環境でスタッフを働かせ、やがて事故につながる。悪者がどこかにいるというより、資本主義的な効率を突き詰めて今の仕組みが形作られていったように感じる。そしてその実態を知らずに、気軽に服を捨てたり買ったりしている自分がいる。
食品も同じように廃棄されている。本書によると日本人ひとりが1日お椀1杯分のごはんを捨てているらしい。例えば恵方巻きは元々は関西地域の家庭的な伝統だったのをコンビニが全国に広げ、「節分には恵方巻き」というイメージを作り上げることに成功した。毎年節分の日には多数の恵方巻きが作られ、捨てられる。本来は必要な売れる分だけ作ればよい。そうならないのはやはり資本主義的発想で、たくさん作ることで儲かる仕組みが根底にある(コンビニ会計というらしい)。
レストランで余らしたご飯を包んで持って帰ることは日本では難しい。それは食中毒などが起きた場合に店側の不利益となるから。自己責任にします、といっても許されない。万一クレームに発展したときの被害が大きすぎるため、企業はリスクを減らすために廃棄を選ぶ。
フードロスの章にあった「すてないパン屋さん」の話が面白い。パン屋では焼きたてが売れやすく、一日の終わりに売れ残ったパンを捨てることも多いらしい。焼きたて数回提供するために業務も忙しい。そして忙しい割に儲からず、疲弊感が漂っていたと言う。紹介されたパン屋さんは店を休業してヨーロッパに修行にいき、そこで現地の料理人が「良い感じに」手を抜いていることを知る。工程を減らし、100点を目指さず70点でもいいから楽をする。その代わり素材にはこだわる。良い素材を作っていればシンプルなパンでも美味しい。日本に帰ってきてからはそのやり方を真似し、さらに定期販売を取り入れていくら作れば良いかを明確にする。再開してからは一度もパンを捨ててないらしい。思考停止せず、あるべき姿に向かって工夫すれば道は開かれる。
リモートワークで友達はできるのか
友人に教えてもらったPodcast「考えすぎフラグメンツ」で話されていた内容に、「リモートワークで友達はできるのか?」というものがある。自宅にいるまま働け、世界中の好きな相手と瞬時にオンラインで繋げるリモートワークは便利で効率的だが、効率が良すぎて雑談が生まれない。会議後にちょっと声をかけて喋ったり、仕事終わりにたまたま帰り道が一緒になった同僚と飲みに行ったり、そういうオフで話すタイミングがない中で友達になれるのか、という話。
リモートワークで5年ほど働いた自分の感覚を表現すると、「友達はできるけど作りにくい」になる。まず、普通に仕事だけをしていたら出来ない。普段は自分の作業に集中し、必要なタイミングでだけ話す。仕事で普通に必要なことはそれだけだが、これでは余白というか、相手のパーソナリティを知る時間が足りなすぎる。例えば3人でミーティングする予定だったのが、1人が遅れて15分くらい2人だけで話す時間ができることはないだろうか?そういう時に適当に喋ってる雑談が信頼関係の芽になる。たまたま出身地が同じだったり、好きなアーティストが共通していたりして盛り上がる。そうなってはじめて別の時間で今度雑談を、と進むことができる。
若い頃はコミュニティが同じ人と友達になり、年齢を経てからは趣味を通じて友達になる。高校や大学では同じ学校に通っているというだけで近しい存在になれた。社会人になりたての時の同期もそう。その後は同じ会社で働く限りはコミュニティの変化はなく、転職したとしてもスキルベースで採用されることが多いので即戦力扱いされて関係性を築きにくい。地域や子育ての友達はできるので、年齢による変化というよりは、コミュニティに入退会する機会が減ってるということかもしれない。
趣味の友達はコミュニティとは違い、居住地や職場は関係なく作れる。アーティスト、ゲーム、お笑い、読書、スポーツ、写真、プログラミング。趣味が同じだといきなり話が弾む。会った時に話すことがある。新作が出たりして話しかけるタイミングもある。こういう関係にはじまり、「今度会った時ご飯でもどうですか?」とどちらかが話しかけると友達になる。
効率の高い働き方は基本的に良いが、気をつけないと徐々に窮屈になる。雑談の機会を設計したり、リアルで集まる機会を作るなどして余白を作る。信頼関係ができているほうが組織としては強い(相手の気分を害すのを恐れず気になった点を話せるから)。みんな友達になろうとはまったく思わないが、安心して意見をいえる工夫は現代には必要だ。
言語化により失われるものもある
本屋に並ぶタイトルはトレンドを反映しているが、最近は「言語化」がひとつのキーワードになっている。最近といっても感覚的には数年前。ひろゆきのディベート動画がバズったり、曖昧な概念を上手く言葉にできる人が賞賛される。しかしその兆候が強くなりすぎて逆をいきたくなってきた。
プロダクトマネージャーをやっていた頃、主な仕事は「つなぐ」ことで、経営チームやエンジニア、デザイナーの橋渡し的なことをよくやっていた。曖昧な要件では開発作業が滞り、認識齟齬が生まれると手戻りが発生してロスになる。目的や懸念事項を言語化することには意味があったと思う。しかし同時に、考えや内容を箇条書きにしてまとめるとき、自分の中のニュアンスが剥がれている感覚もあった。できるだけ誤解がないように背景を手厚く書いたとしても、伝わるのはせいぜい70%くらいな気がする。たとえばユーザーインタビューでその課題が話されたときの表情はシェアできない。経営チームで何度も議題になって、やるかやらないか迷った上でのGoとなったことは書ききれない。社風としてはオープンな会社だと思うが、そもそもすべての感覚を伝え切るのは難しい。
昔戦略についての本を読んだ時、「戦略とは初見の人が聞いて分かるようなものではない。同じ課題で悩み抜き、なんとか結論を出そうと同じ深さまで潜ったことのある人にのみ伝わる」というような一文があった。言葉にされれれば表面上は分かった気になれる。それについて議論もできる。しかし奥深くの芯の部分では共鳴できない。
いま個人で作っているサービスは友人と2人で作っている。その友人は10年ほど一緒に仕事をしており、いろんな問題の解決策や意思決定を相談しながら進めてきた。こうやって時間を重ねていると「なんとなく良い」が共有できる。過去の出来事や他のサービスで例えたり、「心地よい」というような抽象的表現でも伝わる。そしてこういうガチガチでない余白があった方が良いサービスが作れる気がしている。
言語化のスキルはある程度までは必要。それ以降は自分を信じてやれるかとか、どれだけ良いものを見てきたかとか、そういう抽象の部分こそが違いになってくるのかもしれない。
最初のアハ体験を設計する
何かしていて「これだ!」と思うタイミングをアハ体験と呼ぶ。勉強していて知識が繋がったと感じる瞬間、アイデア出しをしていて方向性が見えた瞬間。Webサービスを使う際にもこの瞬間があり、自分のサービスではそれがどのタイミングなのか開発者は理解しておかなければいけない。
Notionであれば書き心地の良さに気づいた瞬間かもしれない。Airbnbでは自分が旅行するエリアに素敵な宿がたくさんあると気づいた瞬間だろうか。どのタイミングで気持ちがアガるかはサービスの性質によって違う。それはユーザーが何を求めてそこに来ているかに依存する。
いろんなアプリやWebサービスが溢れる世の中、ユーザーはひとつひとつ吟味している時間はない。「家計簿 シンプル 無料」とかで適当に調べ、それなりに雰囲気が良いものをいくつか試してフィットするものが選ばれる。候補に選ばれたアプリには数分から数十分程度「これを使い続けるかどうか」の試験を受けることになる。そこで良いと思ってもらえれば生き残る。期待ハズレだと判断されればすぐに削除される。
アプリならアプリストア、Webサービスならホームページは自分のサービスの魅力を伝える場だ。頑張って作ったサービスだからできるだけ多くのことを伝えたいし、こんなにすごいんだよとアピールしたいのは人の性。しかし多すぎる文字は読まれず、本当に伝えたいコンセプトに絞って引き算するのが最適化となる。ユーザーは目に留まった2-3文を流し読み、自分の探してるものに合いそうだなと思ったらダウンロードする。作り込んだたくさんの機能は使っていくうちに伝われば良い。人間でも10を知ってるのに1しか喋らず、他人に聞かれたときに初めて奥深い内容を話す人が素敵に見える。自分の知識のすべてを一気に出してしまうと受け手が疲弊する。
サービスの特徴を伝えるとき、少しでも目を留めて欲しくて壮大なキャッチコピーを書いてしまいがちだ。ビジョンを示すためにある程度膨らますのは良いが、やりすぎると逆効果になってしまう。ユーザーは壮大なビジョンを見てワクワクしてサービスを訪れる。期待値が上がりきっているので、大抵の場合はそれを上回れずにガッカリして離脱する。
自分たちのサービスの「アハ」はいつなのか?それを最短でユーザーに感じてもらうにはどうすればよいのか?これを考えるには作っているサービスのコンセプト、ユーザーは何を求めてサービスを試すのかを解像度高く理解してなければならない。これらの理解に努めることはアハ体験の設計以外にも様々なボーナスをもたらす。