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「通知表をやめた。」を読んだ
「通知表をやめた。: 茅ヶ崎市立香川小学校の1000日」を読んだ。神奈川にある小学校で通知表の意義を考え、やめるに至った経緯と現状の変化をまとめた本。この小学校の近くの友人宅に最近遊びに行ったので縁を感じて購入。教育や評価は関心のある分野なのでとても面白かった。
まず通知表をやめるといっても評価をやめるわけではない。子供の学習に対する評価そのものはしっかり行う。通知表は学期末に学生や親に向けて発行するもので、その発行をやめたという話。小学生の頃は生まれた月などにより成長に個人差がある。普段からそれは気にしなくていいんだよと声をかけていても、通知表でスコアをつけてしまうと矛盾したメッセージを届けてしまう。そういったモヤモヤから出発し、本当に必要なものは何かを考えた結果通知表の廃止が決断される。学校教育というと堅くて動きが遅いイメージがあったが、この本に記録された議論を見ると普段の自分たちの仕事と何ら変わりないように思える(むしろ進んでいる)。本質を見つめて改善に取り組む仕事を尊敬する。
面白かったのはテストで点数をつけるのをやめたという話で、内部的には点数はつけるが学生に返す回答用紙には記載しない。点数があると子供たちはそこに注目してしまい、他の子と比べる材料にしてしまう。点数を書かないことでどこを正解してどこを間違えたのか、純粋にその正誤だけにフォーカスが当たる。思えば「この問題は5点」「この問題は10点」といった配点に何の根拠もない。それは100点満点にするための工夫であり、できなかった問題に向き合うのとは別のベクトルだ。
運動会では対抗で順位を競うのではなく、練習の時の自分たちのタイムを超えられるかどうかに挑戦する。6位でゴールしてもタイムが発表されるまでドキドキして待つ。得手不得手を比べるのではなく昨日の自分よりうまくできたかを測る。オリンピック選手のような競技スポーツの世界に身を投じる人はごく一部で、大半は健康や娯楽を目的に運動と向き合う。そう考えると「昨日の自分より」の発想は本質に近い感じがする。
前例のないトライに反対意見も多く寄せられたそうで、その一つが「中学や高校にあがると結局成績で比べられる。早い段階からそれに慣れておくべきではないか?」というもの。確かに学生の受験でも社会人の業績でも比較を避けて生きていくことはできない。しかし個人的には小学校の間くらいは伸び伸びと過ごし、興味・関心のあるものになんでも挑戦する雰囲気で育つ方がポジティブな影響がある気がする。私は3月生まれで成長が遅く、小学校のときは周りと比べて運動や勉強ができずに自分を「できない子」だと思っていた。でも大人になってみると運動は特段苦手ではないし、新しいことを学ぶのはかなり好きである。競争社会への順応はどうせ長い間しないといけないので、小学生の間くらいはいろいろ試して自分の「好き」を見つける時間になれば良いと思う。
ツッコミ文化が常識から外れにくくする
何かを始めるよりも何かやっている人に注意する方が簡単にできる。SNSを見ても誰かが火種を投稿してそれに全員で油を注ぐ。大炎上時代と1億総ツッコミ時代の関連性は高い。
ツッコミとは人の常識外れの行動を指摘して笑いを取ること。テレビなどでお笑い文化が浸透した結果、今では芸人だけでなく一般人もそこらでツッコむ。それは会議室だったり飲み会だったりで披露され笑いの種になるが、その用法には注意したい。
例えば人と違う行動をしていたとき、それは個性である。それにツッコんで笑いを取るのはみんなの前で「常識」を提示することで、順応性の高い人はそれに従って自分の行動を制限してしまう。例えば1日に10杯ラーメン食べてる人がいても別に良い(健康に悪い可能性はある)。能力がある人は「出る杭が打たれる」が、多様な考えをツッコミが押さえ込んでしまう場合がある。
オードリーの若林がM-1でぺこぱを見たとき、感動して涙が止まらなかったとラジオで話していた。若林はツッコミで、当時出ていた番組は「オードリーさん、ぜひ会ってほしい人がいるんです」など変わった人を紹介されて話を聞くものが多かったという。それについて「おかしいでしょ!」などとツッコむが、本当はいろんな人がいていいと思っている。でも番組の構成上それを言う必要があって苦しんでいたところ、すべてを肯定するぺこぱの漫才を見て「これだ」と思ったそう。場を盛り上げたい、楽しく時間を過ごしたいという思いは良いものだと思うが、否定以外でもそれは作れることは覚えておきたい。
常識と違うのは悪いことではない。常識外れの言動をみかけたとき、むしろその常識がなぜ今まで存在していたかを考える機会としたい。それが人に迷惑をかける行為でなければ否定して簡単に笑いにするのではなく、そのノリと合わせて一緒に踊る方を選びたい。
10知った上で1を話す
何かを人に話すとき、10知った上で1を話すようにしたい。自分を大きく見せたいと思うと1しか知ってないのに10話す。これは知ったかぶりで、表面上は取り繕えても長続きしない。1知って1を話す。これは普通に思えるが深みがない。例えば本に書かれていた名言をそのまま引用するような感じ。自分の言葉にできていないと他人には刺さらない。
10知って1を話すとはどういうことか?本の名言をそのまま鵜呑みにするのではなく、自分の経験と照らし合わせて咀嚼して理解する。複数の本を読んで共通する部分はどこかを理解する。抽象化したうえで改めて言語化する。より説得力が上がるし、その発言に対して質問されてもすぐ答えられる。
本当に理解している場合、質問は心から歓迎できる。自分の理解の再確認になったり、うまく答えられない部分は自分に不足していた部分として「伸び代」にできる。曖昧な理解で話を進めていた場合、質問はできれば避けたいものになる。それは自分の領域を侵され、取り繕った表面が崩されるものに思える。本当に優秀な人はオープンでいる。自分の評判がどうかより、解決したい問題そのものに集中している。
自分のことを書く
人のプライベートにズカズカ土足で踏み込んではいけない。人によって繊細な部分は違い、何気ない一言が相手を傷つけてしまうこともある。プライベートに触れずに仕事や趣味など共通の取り組みについて話してるだけでも十分楽しい。でも、自分の弱い部分を聞いてもらうにはやはり深い関係が必要。そのためにまずは自分から発信する、というのはどうだろうか。
この日記に自分のことを書き、Podcastでも自分のことを話す。大炎上時代に危険なタネを蒔いている感覚もなくはないが、それよりも自分について話しておくのが大事な気もする。気遣いができる人ほど相手にどこまでの話を聞いていいか慎重になっている。自分が仲良くなりたいのは往々にしてそういう人なので、自分のことを開示しておくと会話が進めやすくなる。
世間は1億総ツッコミ社会で、一人のボケ(目立った事象)について全員でツッコミを入れるような構図が多い。お笑い文化の浸透も相まって道から外れたことをするとすぐにツッコまれる。ツッコミ側は常識や正論を言っておけばよいので楽でノーリスクだが、自分が憧れるのはボケる側の人。何かを作ったり発信したり、自分が好きなことを見つけてそれに取り組む姿をみるとうれしくなる。お金持ちには憧れないが、良い年の取り方をしている人には憧れる。
文字での発信というと、長い文章を書くのが面白い。X(旧Twitter)は短文で投稿できて気軽だが、短い文章に要約できすぎてどこに真実があるか分からなくなる。キャッチーなフレーズや鋭い視点だけを書き込むのは映画の予告だけを見続けるみたいなもの。それっぽく誤魔化すのではなく、要約すると削ぎ落ちる部分をつないで文章にすることが最近は心地よい。
若者に説教する人間には絶対なりたくないと思っているが、自分のことを話すのが好きなのもまた真実。アメリカの100ドル札に描かれているベンジャミン・フランクリンは「伝えたいことがあるなら文章に書くくらいがちょうど良い。興味がある人だけが読むなら相手の時間を無用に拘束することもない」という旨のことを言っている。完全同意。自分のことは話したい、しかし飲み会の場で支配的に話したくない自分にとって文章は望ましい。
チンチロライブに行った
霜降り明星・粗品が主催するチンチロライブに行った。チンチロは粗品のYouTubeで人気の企画で、メンバーはシモリュウの二人とダブルヒガシ大東を合わせた4人組。元々YouTube企画だったのが最近はライブでやるようになり、前回は武道館、今回は横浜アリーナでの開催となった。
会場は満席ですごい人数。メンバーのカラー(YouTubeのテロップの文字色)のペンライトを振ってる人がいる。座席から「がんばれー!」や「龍二いけー!」のような声をかける人が多く、それにツッコミを入れて会場が沸くシーンも多々。音楽のライブともお笑いのライブとも一線を画している雰囲気。
チンチロはサイコロを3つ振ってその出目で勝敗が決まる。駆け引きなどなく完全に運の勝負ではあるが、サイコロを投げる前にフリを入れたり流れを演出することでお笑いイベントとして成立している。四人の息のあった連携や先輩後輩なくいじりあう関係性などに楽しく見られるが、特に粗品のプロデュース能力がすごい。さりげない言動で流れを作って他の3人が動きやすい雰囲気を作っている。YouTubeを見ていてもボケやツッコミはもちろん、その企画力に感心させられることが多い。得点を決める能力がありながらパスやゲームメイクも巧みというので、仕事の参考になる部分も多い。
客層は幅広いものの若い人が多く、前の席には大学生と思われる4人組。この日は出目が神がかっていて何度も見せ場があったのだが、彼らはその度に顔の前で手をバンバン叩いてよろこんでいた。こういう空間っていいよね。SNSなどでは周りの目を気にしないといけない時代なので、こういうリアルな閉じられた空間の価値はあがってると思う。ちなみにステージ上では定期的に四人の席替えがあったのだが、そのスキマ時間の度にかなりの人数がトイレなどで席を立っていた。あまり他のライブでは見たことがない光景だったので面白い。
チンチロの企画はYouTubeで無料公開していて、そこで出来たノリやストーリーを引っ提げてライブに繋げている。この最初に無料の場所でファンを作ってからリアルで集金する仕組みに令和を感じた。ライブ前にYouTubeでこれまでの見せ場を集めた復習用の動画を出したり、会場で開演前にチンチロのルールを最速でVTRで説明したりと楽しむための前フリもちょうど良い。ステージや演出も粗品のこだわりを感じるもので、とても楽しい時間を過ごせました。