会話の関係性

2025/10/19

スタバでパソコンしてると隣に高校生が座る。男2人組。テスト前らしいが勉強はせず、スマホとタブレットで一緒にゲームをしている。

基本はゲームの会話だがたまに雑談もする。それが「衣替えいつからだっけ?」「知らん」とか、「あのドラマって面白い?」「観たら分かる」みたいにすべてワンラリーで終わる。会話を膨らますみたいな概念ないのか?と思ったけど高校生の時はそんなものだったかもしれない。

別の日、雰囲気が良いカフェで本を読んでると隣に男女が座る。おそらくマッチングアプリで会うことになった初対面の2人。お互いの趣味や歩んできた人生を聞いたり話したりしてどんどん仲良くなっていく。ちゃんと話を聞き、お互いを尊重していて終始楽しそうにしている。

この2組のコミュニケーションの違いはどこから来てるのか?本人の属性か、性別か、大学の初期という色んな人と話さざるをえない時間を経たかどうかか。目的の違いかもしれないし、関係性かもしれない。仲が良いと一緒にいすぎて逆に喋ることがなくなったりもする。高校や大学のときそうだったなと思い返す。

来週いよいよ髪を切ろうと美容院を予約。久しぶりにパーマにしようとメニューを選んだら3時間コースになるらしい。世間話を永遠とするのが苦手なので不安がある。最近は前髪が視界をふさぎすぎて頭痛のタネになっていたので短くなること自体は喜ばしい。何度か通った場所で美容師さんも悪い人ではないのだが、果たして。


余白がありすぎてもよくない

2025/10/18

朝起きて一穂ミチ先生の小説「光のとこにいてね」を読む。一昨日から読み始めたが続きが気になって仕方なく、スキマ時間を見つけては読み進めていた。昼前に読み終わって読後感良し。なんというか良い物語に触れたという気持ちで、充実した時間だった。

朝食を食べて身支度。今日は日中は外に出ようと思っていて、梅田のカフェに行くつもりだったが本を読んでたら遅くなってしまった。今からいくとお昼時と被って入れないかもしれない。色々考えた結果自転車で10分くらいの幹線沿いのカフェに来る。

慣れないカフェに来るとまずメニューにノンカフェインがあるかを探す。いざとなればカフェインを摂取する構えはあるが、体がフラフラになってしまうのでできればノンカフェインが好ましい。ルイボスラテというのがあったのでそれを注文。かなり美味しくてうれしい。

ここで何をやるか。パソコンができるカフェを選んだので選択肢が多い。個人開発で作りたい機能もあるし、読みたい本もあるし、久しぶりにまとまった文章をnoteに書きたいとも思っている。こういう何してもいい時間は至福だが、こういう時間があとどれくらい残っているのか。

「自分と向き合ったり良いアイデアを思いつくためには余白が大事」とよく言っていたが、余白がありすぎてもよくない場合もあるのかな、と最近思い始めてきた。いまの生活は週3で仕事をし、残りの時間で個人開発をしている。個人開発もハードに詰め込むというよりは生活重視で進められるときに進めるみたいな感じ。そうなるとかなり余白の多い過ごし方になる。

立ち止まれる時間が多いと考える時間が多くなる。「この方向でいんだっけ?」「この作業って意味あるんだっけ?」みたいな。しかし細かい作業ひとつがターニングポイントになることは少なく、大抵はいくつかを積み重ねてようやく結果が変わる。ある程度の方向性を定めたら考えすぎずに黙々と手を動かす時間が大事だったりする。余白が多すぎるとすぐ手を止めて考えてしまう。

今必要なのは淡々とやること。大体の方向性があってれば毎回正解じゃなくていい。間違った機能を作ってしまってもいい。いきなり完全なものを作るのは無理なので、足したり引いたりしながら望ましい形に近づけていければいい。


親切はゼロサムじゃない

2025/10/17

ゼロサムゲームとは誰かが勝つと誰かが負け、そのプラマイを総和するとゼロになるもの。仕事をしているとなんとなく世の中はゼロサムな感じがする。チームの誰かの評価が高ければ誰かがC判定になる。業界でどこかの会社が勝てば、別の会社は業績が伸びず苦しくなる。

でも親切はゼロサムじゃない。誰かに親切にされるとうれしくなって良い気分で過ごせる。その日はいつもより少し優しくなり、周りの人たちに親切に接せられる。それで気分がよくなった誰かはまた他の人に…という感じでサイクルが回る。良い気分が増幅され、世の中の幸福の総量が増えている。

親切にしてくれた人に直接返すのではなく、他者に広がっていくのがポイントかもしれない。例えば恋人に愛を注いだとき、同じ量だけ愛が返ってこなかったら寂しく思う。それが続くと諍いになることもある。愛の形や量は人によって捉え方が違ので、「等しい量を」がうまくいかない。1:1で直接やりとりしているとこういうすれ違いが起きる。一方的に親切にして、なんか自分も気分がいいな、くらいがちょうど良いのかもしれない。

本当に大切な周りの人には愛をたくさん注いでいい。でも関わる人みんなに愛を、とか思ってると自分がしんどくなるときがある。そんな時は愛より親切を。親切は見返りを求めず、気持ちを軽やかにしてくれる。


生活を商売にしない

2025/10/16

Webサービスやアプリのアイデアを考えるとき、自分や周りの人が困ってることを解決するものを考えると良いという話がある。誰のためか分からない曖昧なものを作るより少なくとも一人に刺さるものを作る。大体の場合同じ課題で困ってる人が他にもいるので、深くその課題を解決するものであれば自然と広がっていきますよ、という考え方だ。

このマインドをもって生活していると些細な困り事に目がいくようになる。「これ不便だな」「こういうアプリがあると便利そうだな」みたいに。でも最近はそういう小さいチャンスみたいなのを見つけるのに疲れてきている。色々思いついて作ろうとして、それがすでにあって、みたいなループに消耗している感がある。

自分をいかして生きる」の中にパン屋さんの話が出てくる。そのお店の方が

商売になってしまわないようにするのが大事。家庭の味を商品にして売るのではなく、単純に家庭の味をつくって提供したい。

と言っている。

身の回りの出来事をいちいちアイデアに結びつけるのは生活を商品にしているに近い。単純に自分が欲しいものを作り、それ自体に満足したうえで、ついでに同じように困ってる人いたら使ってね、と差し出すくらいでちょうど良いのかもしれない。

「これ流行りそうだから作ってみよう」と作るものは大体流行らない。それは流行るまで続ける胆力がないから。すぐにうまくいくことは稀で大抵は下積みの時間がある。うまくいかなくても取り組み続けられる、自分なりに意義を感じていたり興味があったりするテーマに時間を注ぎたい。


「自分をいかして生きる」を読んだ

2025/10/15

自分をいかして生きる」を読んだ。著者は働き方研究家の西村さん。以前読んだ「自分の仕事をつくる」では各界の現場を訪ねて「いい仕事」に迫っていったが、本書は対象を仕事から人生に対象を拡げる。

自分を活かす、というとすぐに連想するフレーズは「好きなことを仕事にしよう」。しかしこの表現は実際と少しズレていると著者はいう。その道のプロの現場に足を運んで見る光景は「この仕事が好き」ではすまない態度だったりする。悩み苦み、ただ好きなだけでは潜れない深さまで達している。ではどういう表現だとよいか?それは例えば「あなたが大切にしたいことは?」あるいは「自分がお客さんでいられないことは?」というフレーズである。

自分の場合に置き換えて考えてみると、例えば漫画や音楽は好きだが自分でやろうとは思わない。しかし居酒屋のモバイルオーダーのアプリの出来が悪いと自分で作りたくなる。そんな感じだろうか。でも、これは今エンジニアとしてのキャリアがあるから思うことかもしれない。もっと遡ると大学時代、何かのイベントの進行を見て自分ならもっと上手くやれると感じていた。勝手に改善点を考えたりしていた。こっちの方が原点に近いかもしれない。

自分と社会との繋がりを描いた図も面白い。真ん中に「自分」が立ち、右側に「社会」がある。そして左側には「自分自身」がいる。社会に合わせてばかりいると自分自身がおざなりになる。逆に自分自身ばかりと話してると社会との縁が遠くなってしまう。現代を的確に表している気がして好きな表現だ。

SNSで情報との距離が近くなっている現代は「社会」の影響力が大きい。それと離れる時間を意識的に作って自分自身と「ふたりっきり」になる。自分と対話する時間でのみ生育される内面がある。

自分と向き合うことについて、好きなパンチラインがある。

他人からもらったアドバイスより、口に出してみた気持ちや自分が語った言葉の余韻が、再び自分に揺さぶりをかけて、それが次の場所へ向かう足がかりになってきた感覚がある。

これは「もし過去の自分に相談されたらどう聞くか」という著者の思考実験のなかで出てきた言葉だが、なるほどと頷きながら読んだ。思い返すと他人からもらったアドバイスで道が決まることはほぼなかったような気がする。数回あったような気もするが、それも自分の中では決まっているものがあって、それに符合する形で共鳴していたのかもしれない。

最後に、もうひとつパンチラインを紹介。とある画家の方がインタビューされたときの一幕。

「”絵画は死んだ”とよく言われるけど?」という質問にこう答えていた。

ー あまり関係ない。わたしが朝起きて、絵を描こうと思い続けてればね。ロックと同じようなもので、たとえば、今、ギター中心の曲はあまり作られていないけど、誰かがやりたいって思っていいものを作れば、誰もそんなの価値がないなんて言えないじゃない。

この言葉にものづくりのエッセンスが詰まっていると思う。自分が価値があると思えば、他者からの評価がなくてもその価値はゆるがない。