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執着を手放すということ
若いのを良しとすると、歳を重ねて老けていくのを残念に思う。お金持ちになりたいと思うと、自分より収入が高い人に会ったとき自分が小さく見える。どの分野でも上には上がしるし、なにかに執着するということはそれを基準に比較が生まれるということ。この考え方は幸せになりにくい。
幸せとはどういうことか?それは没頭できる時間が多いこと。何かに打ち込むとき、誰かといるとき、楽しい時間は一瞬で過ぎる。過去や未来に想いを馳せるのではなく、その瞬間を目一杯感じる。こういう時間をどう増やせるかを考えると、他人ではなく自分が基準になる。手を動かし、頭を使い、自分の興味に進む。それがたまたまお金になることもあるが、あくまで本質は没頭する時間の最大化。幸せとは特定のゴールではなく、日々の没頭の状態のこと。
将来の不安、過去の後悔。考えることは山のようにある。そんななかでイマを生きるのがマインドフルネス。雑念と距離を置き、いまこの瞬間にフォーカスする。マインドフルネスのワークでは呼吸に集中するが、何かの取り組みに没頭しているときも近い状態になる。ゾーンに入るというのも近い気がするし、脳汁が出ている状態といってる人もいる。
自分の中の話なので、外からの情報は基本的にノイズになる。適量なら着想のヒントや刺激、自分の引き出しになるが、情報を摂取することは没頭によってはマイナス要素。外部の状況を知り過ぎると取り組もうと思っていたことのブレーキになることがあるし、取り組みが外部から評価されると突然おもしろくなくなってしまう。他者から見て意味がなくても自分にとって価値があればそれでいいのだが、創作は儚いものでそこまで自信を持つのは難しく、自分の取り組みを客観視して手を止めてしまうことも少なくない。
人からの評価はアテにならない。自分の取り組みを100%理解してもらえることはまずないし、そもそも何かを評価するということ自体が難しい(死後評価され始める画家がいる)。何かを相談するといろんな人が自分の意見を言ってくれ、時には活動に対して評価されたりする。それでやる気を失うことも多い。基本的には黙って黙々とやる方が続きやすい。ただし誰にも相談しないと孤独が大きいしフィードバックがなくて少し不安になる。そんなときはトピックごとに相談できる相手が1人いると良い。会社ならこの人、プライベートならこの人、趣味ならこの人、みたいな。相手はそのトピックの経験者で、かつ人の話をよく聞いてくれる人だとうれしい。ありがたいことに今そういう人たちがいるが、彼らは自分の意見を押し付けずに話をよく聞いてくれる。自分への尊重を感じるし、モチベーションが枯れずに興味がさらに掻き立てられる。没頭の時間がさらに色濃いものになっていく。
対話がないと疑心暗鬼になる
チームや組織で働くと、必ず自分とは価値観の異なる人とやり取りすることになる。相手の言動に疑問を持ったとき、その疑問は相手に直接聞いてしまうのが多分一番良い。これ聞くと失礼かな?と考えて躊躇ってしまうが、聞かないとそのモヤモヤは晴れずに胸中で生き続ける。モヤモヤが残ってると、次また同じことがあったときに「この人はいっつもこうだな」みたいに自分の中で勝手にそれを濃くしてしまい、疑問が熟成されていく。言動ではなく、その人自体を疑問に思ってしまう。
『他者と働く - 「わかりあえなさ」から始める組織論』では、他者のナラティブ(物語。文脈のようなもの)を理解する重要性が説かれている。価値観の違う、対岸にいる人。彼らとは同じ川岸に集まることはできないが、川辺まで寄り添ってよく話を聞き、そこに橋を架けることはできる。橋を架けるために大事なのが対話で、ある意見が出た時、それがどういう価値観から出たのか、どういう状況下で生まれたものなのかを考える。頑固に自分の意見を曲げない人がいるとして、実はチームの目標が厳しく周囲のメンバーのためにどうしてもそう言わないといけないかもしれないし、過去に同じような成功体験があってそれで意見が強くなってるのかもしれない。同意はできないかもしれないが、相手の立場になること、相手を分かろうとする姿勢が重要。
対話がないとどうなるか?埋められなかった差分を、こちらのロジックで勝手に補足していまう。仕事にやる気ないのかなとか、こういう性格だからそうしてるのかなとか、自分から見える景色だけで勝手に着色してしまう。自分と違うものは怖れる傾向があるので、よっぽど意識しない限り悪い方に着色する。それで疑心暗鬼になり、一度疑ってしまうとその人と真っ正面から話すのがどんどん難しくなってくる。火は熱いうちにではないけど、気になることは早めに対話して疑問をひらいていきたい。
自発的に学ぶ分には楽しい
1年ほど前から週2ペースで水泳に行っている。企業がやってるフィットネスジムとかではなく市区町村がやってるプールで、おじいちゃんが水中ウォーキングとかしてる感じの施設。行き始めの頃は10メートルくらいしか泳げなかったが、コツコツ練習して休憩挟みながらなら500メートルくらい泳げるようになった。
スクールではなく自由にプールを使ってねというスタイルなので、泳ぎ方は自分で調べる必要がある。こういう時便利なのがYouTubeで、少し調べたらいろんな人が自分のチャンネルでクロールや平泳ぎの方法を紹介している。自分の課題に合わせて動画を漁って見る。今日はこれを試すぞ、と決めてプールに行ってやってみる。うまくいかなかった部分があればまた帰ってからYouTubeで調べる。これを繰り返して少しずつ泳げるようになった。インターネットは(うまく使えば)素晴らしい!
元々ほぼカナヅチで水泳も苦手意識があったが、それはなぜだか考えると小学校の体育の時間が思い返される。子供のときは身長が低く、クラスで背の順に並ぶと一番前か前から二番目が定位置だった。プールに足はつかず、本能的に溺れる怖さがある。授業はゆっくり水に慣れていく過程もそこそこに、先生が全体向けに泳ぎ方を説明して、笛をピッと吹いたら泳ぎ始めるみたいな進め方だったと思う。それだけで泳げる子もたくさんいたが自分はそうではなく、よくわからないまま授業が進んでいった。高学年になってからも、自分は息継ぎのやり方がわからなかったので25メートルプールの途中で毎回足をついていたが、それに対してアドバイスをもらえるわけでもなく、であれば改善して上達するわけもなく、水泳の授業が来るたびに苦手意識が深まっていった。
大人になってからの水泳は自分のペースで学んでいけてる。これは楽しい。まずは平泳ぎをやろうと思って、足の動かし方、腕の振り方、息継ぎの仕方、水中での呼吸の仕方。自分で学ぶべき課題を考えてそのやり方を調べ、実践で試してみるサイクルはそれ自体そもそも面白い。少しずつできるようになっていくと自分を好きになれる。小学校のときの全員押し並べての方法では、できる人と自分を比べてしまい自信をなくす。自分を嫌いになるのは辛いので水泳が嫌いということになる。
内発的動機にしたがってなにかを学ぶのは楽しい。スポーツでもいいし語学でもいいし、趣味でも仕事でもいい。ただ、最初の一歩を踏み出すのにハードルを感じることは多々ある。
そういうときに最近思い出すのはRebuild.fmというPodcastの、higeponさんゲスト回。higeponさんは優秀なエンジニアだが、コンフォートゾーンを出るために未経験のダンスを習いに行く。自分は素人でまわりは若者ばかりの状況のなか、場違い感を感じながらもスタジオでダンスを練習する。何かはじめるのを躊躇うとき、「でもhigeponさんもダンスやってるしな…」と思うとちょっとハードルが下がる。学びを他人と比較されるのは嫌だけど、ちょっとした背中押しの勇気をもらうのも他人からで面白い。
岩盤浴に行った
岩盤浴に行った。関西に戻ってきてから行き始めた趣味だが、中々気に入っている。私がよく行くところはいくつか部屋があり、温度や雰囲気を選んで入り横になる。10分くらい寝てるとすごい量の汗がでてくるので起きて冷たい部屋に移動して体を冷ます。途中マンガを読みながらの休憩を挟みつつ、これを4セットくらいして帰ってくる。
室内はスマホやマンガの持ち込み禁止で、とにかく天井を見上げるしかやることがない。これがとても良い時間で、モヤモヤしてることを考えてみたり、ただただ呼吸に集中したり、なんというか余白ができる。スマホを触らずただボーっとしている時間ってめちゃ少なくなってるので貴重で、内臓を温めるのもそうだけど考え事を整理しに行ってる感覚が近い。サウナが流行ってるのも脱スマホの時間を強制的に取れるのが良いからみたいな説がある。本当はサウナに行けると全国いろんなところに行けて楽しそうだといつも思うが、熱すぎて呼吸が苦しくなる感覚が好きじゃないので避けて通っている(水風呂も苦手)。
休憩中のマンガは以前友人が勧めてくれた「ダンジョン飯」を読んだ。ダンジョンを進みながらモンスターを捕獲し、それを材料に料理して食事していくという話。ファンタジーと料理、漫画鉄板の2つの要素を掛け合わせてるから外しようがないやつね、とやや斜に構えていたが、読むとちゃんとストーリーもおもしろかったです(すみません)。いつも思うけど漫画家は絵もセリフもストーリーもコマ割りも自分でやってて総合力が高すぎる。どれか一つで十分プロなのに一人で何役もやっている感じ。尊敬する職種の一つ。
ダンジョン飯は絵がめちゃ上手くて綺麗なのだが、私は絵が上手すぎる漫画を読んでるとじわじわ疲れてくる。精緻に描かれてると読む側も集中力を求められる、みたいな。数冊読んで残りは次回に回すことにした。ダンジョン飯は全14巻で完結済み。コツコツ通って読んでいきます。
寄付に関するNのこと
ビル・ゲイツが公衆衛生の問題に取り組んでいることは有名だが、その財団の寄付額が大きすぎて一部から批判されているらしい。寄付しすぎて怒られるというのが不思議で面白い。自分の利益ばかり追求しているとかじゃなくて、寄付しても怒られるのか。批判のポイントとしては寄付額が大きすぎて、彼が寄付した分野の問題が優先的に解決されてしまう。選挙で選ばれたわけでもないのに影響を与えすぎだ、ということらしい。ニュースの中でそれは「選挙で選ばれたわけでもない億万長者が世界のアジェンダを決めている」と表現されていて、まったく本筋ではないけど世界のアジェンダって表現かっこいいな、などと思いました。
日本では寄付文化が薄いと言われていて、これは昔寄付金詐欺が横行した影響らしい。余計な爪痕が残ってしまっている。雰囲気的にも寄付は善?偽善?みたいなのを誰かから問われる気が自分はしてしまい、「やらない善よりやる偽善」とかキャッチコピーでわざわざ寄付を正当化しないといけない。もっとシンプルにやりたいからやるで良いのに。
俳優の杉良太郎さんがしていたボランティア活動について記者から売名行為かと聞かれたとき、「偽善で売名だよ。みんなももっとして、名前を売ったらいいですよ」と答えたという話を思い出す。モヤる質問を一刀両断、という感じで気持ち良い。いま調べたら「お金がない人は時間を寄付すればいい。お金も時間もない人は、実際に活動している人に拍手を送るだけで十分」という発言もされており、これも素敵。自分にできる範囲のことをやれば良い。
最近ではクラウドファンディングに参加する人が増えたり、寄付的な活動が身近になっている気がする。投げ銭とか、広いくくりでは推し活とかもそうか。困ってる人を助ける、応援したい人を応援する、そういうのがインターネットの力もあいまってやりやすくなっている。自分もごく少額ながら寄付のサブスクをやっているが、それは自分が困っている時に助けてもらえたらうれしいから、という表現が近い。自己責任に集約するのではなく、お互いが(できる範囲で)助け合える社会になると良いですね。