日本で一番自殺率の低い町
「生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある」を読んだ。著者が日本の市区町村で自殺率の低いところを探していると、徳島県のある町(海部町)が目に留まる。近隣の町を見てみると特段自殺率が低いわけではない。病気など不安の種自体は等しくある。では、何が自殺率を減らす要因となっているのか?著者は実際に町で暮らし、住民と関わる中でその因子を発見していく。最近読んだ本の中でも抜群に面白く、一気に読み終えた。
町の人と話したり特徴を調べたりするなかで、著者は5つの因子を見つける。例えば「赤い羽根募金が集まらない」。海部町では近隣よりも募金が集まらない傾向があるらしい。自殺が少ないと聞くとなんとなくハッピーなイメージを持ち、募金はよく集まるものかと想像するが実際は逆。「この募金が何に使われるかよくわからない」と参加しない。逆に町の祭りなどにはお金は出す。他の人がやってるからではなく、判断の拠り所が自分にある。
うつ病の受診率が高いというデータも見つかる。他の町では「うつ」が周りにバレないようにと考えるが、海部町では誰々がうつになったらしい、じゃあお見舞いにいかないと、とオープンにやり取りされる。これを嫌に思う人もいるかもしれないが早い段階で明るみに出されるのは良い面も多い。うつ病を認めにくいのは周りの目など社会的な環境が大きい。周りから特別視されず、治療後は普通に同じように働ける環境であれば受診を妨げるものはない。
海部町には「病、外に出せ」というスローガンがある。困ったことがあったら早い段階で公にする。そうすると対処方法や良い医者など、助けとなるための情報が集まる。明らかに良いサイクルだが、これを実現するのは中々難しい。外に出しても周りから嫌な目で見られない、外に出すと助けが得られるという成功体験を得る、外に出すのが良いことだというコミュニティの雰囲気があるなど、条件が揃って初めて成立する。海部町では歴史的な経緯によるところもありこれが成り立っている。
ここまでの内容だとコミュニティの助け合い精神が高い印象を受けるが、アンケートではそういう結果にはならない。むしろ近隣の町の方が直接的な助け合いには重きを置いている。海部町はどうかというと、困ったことがあれば助け合うが普段はそこまでコミュニケーションは取らない。でも挨拶はよくする。縁側や公共施設など、"街のサロン"となれる場所がたくさんある。そこでできる「ゆるいつながり」がこれらの文化を支えている。
会社のオフィスでも優れたコラボレーションは自販機やウォーターサーバーでの会話から生まれるという話を聞いたことがある。無理に各職種を集めて会議をしてもアイデアは出ない。偶然顔を合わせる場所を作る設計が重要で、そこで挨拶をして育まれた関係性が別のところで花開く。大企業ではスポーツや趣味などの同好会が作られ、部署を超えたゆるいつながりに一役買っている。エンジニアの勉強会では社外の関係性が作られる。こうしたゆるい繋がりは大切にしたい。
いま働いている会社は「オープンでいよう」というバリューを掲げており、実際そのような文化が実現されている。困ったことがあってチャットに書き込むとすぐに誰かからヘルプが来る。それを周りの人は見ているので、助けてもらえそうな雰囲気を感じ取って次に自分が困ったときは書き込みやすくなる。文化は日常の小さな積み重ね。言語化して方向性を定め、行動で示すことで組織に伝播していく。
多様な価値観を尊重しようとすると、相手のプライベートゾーンに踏み込まずに手前で線を引いて仕事の話だけに割り切った方が簡単かと思う時がある。でも本当に働きやすい空間ではお互いに関心を持つ。配慮は必要だが、相手を知りたいと思う気持ちにフタはしなくて良い。
完成に近づくにつれ進捗は悪くなる
何かつくるとき、最初は伸び伸び自由に作り始める。思い描いたイメージに向かって手を動かし、3-4割くらいまではあっという間。この時間は本当に楽しく、この勢いで完成まで一気に行ってしまうような気もする。
完成度が半分を超えると、進みが少しずつ鈍くなっていることに気づく。それは後に回してきた複雑な機能の実装であったり既存の実装への影響の考慮であったりするが、考えることが増えて手を動かしてばかりではいられなくなる。8割くらいまでくると詳細を詰めたり不具合を直したりで中々前に進まない。当初の想定より時間がかかって焦ったりもするが、ここは辛抱強く乗り切らなければいけない。
登山道には「何合目」という目安が設置されている。標高が高くなるにつれて一合目、二合目と増えていき、山頂が十合目。普通に考えると距離や標高を按分して計算しそうなものだが、そうではなく「体感のしんどさ」で10分割されているらしい。急な坂があるところだと合目の感覚は狭くなる。ものづくりの進捗にも近しいことが言えそうだ。
進みが悪くなったとき、まずはやるべきことを書き出す。思いついたところから着手していると広範囲を同時に相手にすることになりスイッチングコストが高くて疲弊する。まずはここ、次はここというように一つずつ終わらす。基本的には重要な部分から終わらすのが良いが、数が多すぎる場合は細かいものに先に着手して数を減らす。「あれもこれもやらないと」と考えているだけで脳の何パーセントかを使ってしまう。まずは細かいものをバタバタと終わらせ、余白ができた状態で本丸を相手にするのが得策だ。
Webサービスはリリースして終わりではなく、そこからが始まり。リリース後は機能開発とユーザーの声に応えるのと2軸を両方やらないといけない。ギリギリなんとか動く状態で完成させるのではなく、ソースコードや仕様を整理して長く走り続けられるのが見えている状態で世に出したい。Facebookのザッカーバーグが言った「完璧を目指すよりまず終わらせろ」は品質ではなくスコープのこと。リッチすぎる機能は最初から必要ないが、改善を載せていけるだけの土壌は最初から用意しておきたい。
アドベントカレンダーという文化
アドベントカレンダーは元々クリスマスまでのカウントダウンをするもので、12月1日から24日までの24日間お菓子の入った小さい箱をひとつずつ開けて楽しむ。インターネット界隈におけるアドベントカレンダーは違うものを指し、クリスマスまで毎日定められたテーマごとに記事を書く。毎年いろんなテーマのカレンダー作られるため、12月はたくさんの記事が世に公開されることになる。
現場で得た経験や知識を記事に書いて他の人に共有する。Web系で働く人からすると違和感はないが、自分の飯のタネを人に教えているとも言える。本来は自分だけのノウハウにしてそれで商売できる。それでも公開するのは、自分もまた誰かの書いた記事で勉強させてもらったからだ。学ばせてもらった分自分も書ける範囲で公開する。善意のサイクルが成立している。
OSSという文化がある。オープンソースソフトウェアの略だが、自分の作ったソースコードを無料で公開する。時には誰でも改変できる形で配布する。プログラミングをしていると同じような問題でみなつまずく。その際に全員が毎回苦労するのではなく、世界の誰かが作った有名ライブラリを探してそれを利用し、必要に応じてアップデートのリクエストを送る。基本無料なので作者のモチベーションに依存する部分は多くはあるが、エンジニアのオープンな文化の礎である。
インターネットへの恩返しの他にも、書き手にも良いことがある。良質なOSSや記事を書いていると実力が保証されて仕事を得るのに有利になる。エンジニア向けの採用サービスではこういった各種情報を取りまとめるものも多く、明確に指標化されている。その人の書いた記事やコードを見れば一緒に働くイメージが沸きやすい。勉強会という同じ場所に集まって知見を発表し合う場もある。そういう場所でできたゆるいつながりは新しい環境に行くきっかけになることも多い。
私も最近はプロダクトマネージャーやAIなど、毎年何かしらのアドベントカレンダーに参加している。自分の場合は学んだ内容を整理するのが最大の目的。人に公開する必要はそこまでないが、誰かに読んでもらう前提で書く方が自分の中でまとめやすい。たまにコメントなどで反応があるのもうれしい。アドベントカレンダーの時期に書く必要自体はそこまでない(むしろ別の時期に出す方が埋もれないので読んでもらえるかもしれない)が、Web界隈のひとつのお祭りとして楽しんで参加している。
詳しくなくても趣味と言っていい
映画を観るのが好きだというと「好きな監督はいる?」と聞かれる。読書が好きだというと「誰の作品が好き?」と聞かれる。贔屓の作家がいるわけではないのでこういう質問には答えづらい。そして答えられない経験をする度に、あまり知らないし趣味とは言えないのかな〜と思っていた。最近は詳しいかどうかはあまり関係なく、ただ観たり読んだりするのが好きなだけで良いのだと思えるようになってきた。
好きな作家を聞かれても特にいない。でも特にいないと答えると会話が終わってしまうのでみんな好きそうな名前を挙げて反応を窺う。処世術ではあるが、こんなことばかりしてたら自分を見失う。自分が本当に好きなことより相手からの見え方を重視する思考になってしまう。
その作品自体が面白かったかどうか、どのシーンが好きだったかは言えるが、その作り手が誰かまでは把握していない。「あの作品の監督だよ」と言われると確かに似てるなという気がしてくるが、あまりその人の世界観を知ることに興味がないのかもしれない。自分の趣味と合う作り手を知ってればお気に入りの作品に出会う確率があがって良さそうだ。ただ、これまでの経験では同じ作者でも作品ごとに好きなものもあれば微妙だったものもある。
最近は冒頭のような質問にも答えられるようになった。会話が続きやすいボールを投げるのが上達したのもあるが、大人になっていろんなコンテンツを観ていく中でお気に入りの作品が増え、その共通項が見えやすくなった。YouTubeやXなどで他者の感想に触れる機会も多く自分の感情の言語化もしやすい。作り手にスポットライトを当てるトレンドもある。好きな作家は?と聞かれて困っていたのは、自分の感覚を適切に表現する言葉を知らなかったからかもしれない。
何が好きかはたくさんのモノに触れて初めて分かる。子供の頃は変に抽象化する必要はなく、自分が好きなものを一つ一つ集めれば良い。それがたくさん集まるとなんとなく重なる部分が見えてくる。それは作者であったり雰囲気であったり作品のテーマであったりするが、人によってグッとくるポイントは違う。「好きな作家は?」ではなく「印象に残ってる本や映画は?」と聞かれるなら答えられる。世間的な評価も業界のトレンドも関係なく、自分に響けばそれは名作。そう思えるようになるまでかなり長い時間がかかった。
子供の頃読んだ漫画はいつまでも面白い
SLAM DUNKやHUNTERxHUNTERなど自分が学生時代に読んだ漫画はいつまでも面白い。逆に鬼滅の刃やヒロアカなど最近の漫画はあまりハマれない。これは好みの変化もあるが思春期の影響も大きそうだ。
小学四年生の時にジャンプでONE PIECEの連載が始まり放課後よくキャラクターの名前の言い合いをして遊んでいた。大学生の頃はHUNTERxHUNTERやシュートの名言を引用して楽しんだ。多感な時期、自分の基礎が形成される頃に読んだ漫画には大きく影響を受ける。作品の面白さに加えて友達と共有できたというのも大きかったかもしれない。
最近はウェブ連載も増えて人気作品の数はとても増えた。面白いものもたくさんあるがかつてほどはハマれない。読書や個人開発など他に趣味ができて相対的に弱まっているのもあるかもしれない。小説と比べると漫画は一冊をすぐ読み終えてしまう。外出中に読むには何冊も持っていかないといけないし、ボリュームが嵩張るので家のスペースも取る。最新刊を買ってきて本棚に並べるのが好きだったが今は考えが変わってしまった。
鬼滅の刃が流行ったとき、ONE PIECEやBLEACHなどこれまで流行ってきた漫画のエッセンスが凝縮されてるなと感じた。でもこの感じ方は世代的なもので、おそらく上の世代はキン肉マンや聖闘士星矢で感じるのではないか。自分の血肉になったものでどうしても語ってしまう。
今でも紙で買ってるのは「アオアシ」と「ワールドトリガー」。アオアシは気合いじゃないサッカー漫画。高校サッカーではなくJリーグのユースが舞台で、田舎から出てきた主人公はチームに揉まれながら技術を身につける。ワールドトリガーは読むと仕事が上手くなるバトル漫画。宇宙人と戦うストーリーではあるが、個の力でなく組織やチーム戦略の比重が大きい。戦闘中の立ち回り、上層部に承認をもらうべく調整するシーンなどはサラリーマンに刺さる。
ここまで書いていて、漫画を読む時間が減ったのは学生の頃より漫画の話をする機会が減ってるからな気がしてきた。自分に合った漫画を見つけるのは意外と難しい。近しい友人が自分の知らない漫画で盛り上がってそれを読みたくなるようなタイミングが今の生活にはない。絵柄やストーリーからレコメンドする技術が発達したり、友人の読んでいる作品がわかるSNSなどが出てきたら解決されるかもしれない。期待して待ちたい。