意見の作り方、好奇心の作り方

2025/01/05

自分の意見や感想を伝えるのは難しい。思っていること、感じていることを言語化するのには練習が必要。そのためには本や作品のレビューなど誰かが書いたものに触れ、自分の感情にしっくりくるものを探していく。それを繰り返すと自分の感情はこう言語化できるんだというピースが集まる。ピースがたくさんあると自分の感情をストレートに人に伝えられるようになる。

好奇心はその逆で、人が本来備えている。子供の頃は外を探検したり絵を描いたりと好奇心のままに行動する。それが危険なものを避けたり、社会的規範を身につけたりするうちに行動は狭まる。同じ失敗を二度しないように注意深くなるのはよいが、やりすぎると自分の本来の気持ちを封印することになる。その職業で食べていけるのか、どうすれば安定した生活が送れるのか、頭で考えることと好奇心に従うことはベクトルが異なる。好奇心を妨げるものに自覚的になること。自分の好奇心にフタをしているものが何なのかを理解し、それは本当に必要かを考える。絡みついたものを剥ぎ取れば好奇心は自然と生き返る。

社会で調和を重んじていると思っても言えない言葉がある。空気を悪くするとか、自分固有の拘りだから言うまでもないかなとか。それでも浮かんだその言葉は自分自身のもの。人に言えないことは紙に書く。周りの反応が怖くても自分がそう感じたことは真実。書き留めておけば風化させずにすむ。

最近、辻村深月さんのエッセイ「あなたの言葉を」を読んだ。小学生に向けて語りかける構成で、あの頃のモヤモヤをきれいに言語化してくれる。子供の頃は人に優しくしたくても上手くできなかった。真っ直ぐそれをやると友達にからかわれてしまいそうで、周りに合わせることを重視して自分を曲げていた。内心をそのまま出力できるようになったのは最近のこと。子供には子供の社会があったのだなと読みながら思い出した。誰かが困っているときに言葉の力は助けになる。気持ちに合った表現ができるように、ピッタリの言葉を集めていきたい。


記憶はその土地に結びつく

2025/01/04

年末年始で実家に帰っていたが、その間は子供の頃のことをよく思い出した。家族とそういう話をしたからではなく、懐かしいモノや景色に触れて記憶が想起された感じ。納戸に閉まわれた将棋盤を取り出して甥っ子と遊んだ。子供の頃将棋教室に通っていた時期があり、町で行われた大会に出たこともある。全然上手くはないが準優勝した。小さい町だったので参加者が8人とかで、さらにレベルが低すぎて相手が二歩(同じ列に二つ歩を置く反則)で負けていったりしていた。子供だったのでそれでも嬉しくてしばらくテンションの高い日々を過ごしていたが、次に進んだ地域大会の一回戦でボロ負けして将棋人生のピークを終えた。

中学の頃、美術の授業で「音楽を聴いてそれを絵にする」というものがあり、最初に曲が流されてみんな各々の絵を描き始めた。お絵かきは好きだったので一生懸命描いていたら、先生が自分の絵をじっと見て「本当にちゃんと曲聴いてた?」と言った。これは大変ショックで、家に持ち帰り母にゼロから描き直してもらってそれを提出した。今思い返してもあれは教育ではない。この時からしばらくの間絵が嫌いになった。

英語の担当だった先生は「Last Christmas」の曲を英語で全部歌えたら成績に加点します、という企画をやっていた。この企画のおかげで今でもLast Christmasだけ英語で口ずさめる。クリスマスシーズンにこの曲がかかると気づいたら歌っていて、いつもこの先生のことを思い出す。歌でいうと音楽の先生もユニークで、教科書とはまったく関係なく先生が独自に集めた6曲くらいの楽譜をファイルに綴じて配り、そこから各自一つ選んで先生の前で歌うテスト形式だった。その歌は今でも歌えるし、その先生は音楽が好きなんだろうなと思っていた。

近所を軽く散歩したが、田んぼに囲まれた風景はあまり変わってない。次々と変化が起きる東京は異常値で、ほとんどの生活は緩やかに変化していく。いまは地方都市に住んでいるのでその中間くらいだろうか。地に足をつけ、本当に必要なものを作ってコツコツ生きていきたい。


石橋を叩きすぎない

2025/01/03

仮説行動―マップ・ループ・リープで学びを最大化し、大胆な未来を実現する」を読んだ。仮説思考という言葉を近年よく聞く。闇雲に動くのではなくまず仮説を立て、それを検証していく動きのことだ。著者はその仮説思考に加えて「行動」の重要性を説く。良い判断をするためには良い情報が必要。その情報は検索ではなく行動によって手に入れることができる。

何か判断する時、私たちはリスクを考える。失敗すると痛い、確実度の低い道は怖い。リスクは極力避けたくなるのが人間の本来だが、それを試さないことで失っているものが実はある。昔WWDCというAppleが主催するカンファレンスに出張で参加したことがある。会場はアメリカなので交通費も宿代も高い。カンファレンスの内容はインターネットでも公開されるので、わざわざ高いお金を払って行く必要はないように思える。でも世界中から自分と同じ開発者が集まってきていて、エンジニアじゃないと意味がわからないくらい小さな発表に熱狂的に拍手する。そういう空間で時間を過ごしたことは経験として大きい。

エンジニアには勉強会という文化があり、会社や個人がスペースを借りてお互いのノウハウを発表し合う会がよく開催される。業務外の時間に開催されているものなので参加する義務はもちろんない。ただそこで緊張しながら発表したり、他社のいろんな価値観のエンジニアと交流したことは確実に自分の糧になっている。勉強会に参加する時間はプライベートだし、発表することには炎上リスクもある。しかし参加したことで得られたものはリスクより遥かに大きい。

リスクと直面したときどう考えるか?それにより自分が失うものを考える。お金、時間、人との繋がり。それが許容できる損失であれば試してみれば良い。失敗を恐れるあまりリスクを過大に評価している場合がある。一度計算の脳を経由することで何が怖いのかを明確化でき、挑戦する勇気を持てる。

そう考えると個人開発のリスクはほとんどない。自分ひとりで、もしくは気心知れた友人と作る分にはお金のロスはなくてあるのは時間のロスだけ。しかしそれも技術の勉強が楽しかったり、ものづくりそのものが楽しいのであればロスとは言わなそうだ。変なものを作って社会的信用を失う?倫理規範を逸脱してなければそんなこともまぁないだろう。そしてリターンとしては金銭面や自由な働き方が得られる可能性がある。ただ誰でも手軽にというわけではなく、毎日コツコツと続ける必要がある。それは心から好きじゃないと辛いことだと思うので、良いライフワークと出会えたことに感謝である。


ブランディングの正体

2025/01/02

ブランディングの誤解」を読んだ。N1マーケティングでお馴染みの西口さんの新書。西口さんと元USJの森岡さんのマーケティング論はリスペクトしていて著書が出たら即買うようにしている。

ブランドは抽象的で計測はできないというイメージがある。テレビCMなどで自社のPRをしてもそれが何に繋がるか定めないことも多い。著者はこれはブランディングの誤解であるといい、本当の意味でのブランディングについて説明する。

複数の商品やWebサービスがあり、ユーザーはそれを比較して購入する。この時点ですでに選ばれるだけの何かがあり、選ぶことで最初のブランドが形成される。実際に使ってみて期待通りか期待を超えた場合はさらにブランドが強化される。次の購買タイミングでも同じ商品を選び、リピーターになるとブランドが定着し、ユーザーはファンになる。

ブランディングとは何か?その商品の特徴・独自性が何かを明確化し、ユーザーに伝える作業のこと。つまりマーケティングのひとつ。プロダクトにはまず独自性が必要。固有の価値がないものにいくら良いイメージを付けても価値は高まらない。

Webサービスを作る身としてはどう捉えておけばよいか。ユーザーの課題を解決する便利なものを作り、それを困っているユーザーに届ける。まずは価値あるものを作る。価値には多機能とかサクサク動くとかとかいろんな側面があるが、それをユーザーに届きやすい言葉に変えて表現する。そのプロダクトが爆発的人気になるかどうかは宣伝の多寡ではなくその課題で困っている人の数による。シンプルで分かりやすい。

大学生で就活をはじめた頃、アクエリアスも爽健美茶もコカコーラ社のブランドであることを知って驚いた。無知だった自分は「コカコーラ お茶」のようにコーラの関連商品として分かりやすくした方が良いのではと思っていたが、コーラと聞くと炭酸飲料が想起されてしまいお茶を売るにはむしろ不利になる。ユーザーはそのブランドにどういうイメージを抱いているか?自社都合でそれを無視せず、ユーザーの抱くイメージを起点にプロダクトを拡張していきたい。


面白がる能力

2025/01/01

「ショーハショーテン」というお笑いを題材にした漫画がある。高校生の主人公は同級生とコンビを組み、高校生版のM-1の優勝を目指して努力する青春マンガだ。お笑い版のバクマンと表現できるが、作中の漫才が普通に面白くて笑えるのがすごい。

漫画のシーンで、面白い人は日常の違和感や面白いポイントを見つけるのがうまいという話がある。壁に貼られたポスターの構図に、キャラクターの独特なセリフに、違和感のある状況に笑うポイントを探す。

私も昔からよく笑ってしまう方で、真剣な場でも笑ってしまう。新卒の頃会議に参加する人数が多すぎるのが面白くてニヤついてたとこ正面から注意された。シリアスな場面では気を引き締めた方が調和としては良いが、それでも内心では何でも面白く感じている(自分が面白い人という主張ではないです)。

大学生や社会人になって、どういう場面では笑わないべきか学習するようになった。「なぜ笑ってるのか」と聞かれてもうまく答えれないし、その問答自体が面倒くさい。いま仕事がリモートワークになり、周囲に気を使わずに過ごせる時間が増えた。そうなると昔のようによく笑うようになってきた。元々笑ってる方がハッピーなはずで、それを封印する必要はない。歳を重ねて自分の好きに過ごしていいと思えてきて、自由へと一歩近づけている。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。